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親のイメージ
親のイメージ
「あなたのお父さんやお母さんは、どのような方ですか?」
と質問されたら、何て答えますか。
私は、父親と一緒に暮らしたことがなく、既に他界しているので、父親のことをあまり知りません。父とは、何回か食事を共にしたぐらいなので、血のつながりはありますが、その分、遠くにいて手が届かなかった人という印象をもっています。
子どもの頃から私は、他の家にはお父さんがいて、お父さんというものがわかるけど、私にはわからない。一生、わからないのかも知れないと感じていました。
私の子ども時代は、父親が外で働き、母親は専業主婦が当たり前と言われた時代だったので、女手一つで子どもを育てることにプレッシャーを感じていたのでしょう。
母は、私に
「あなたには父親がいない。だから、世間様から後ろ指をさされるようなことはしてはいけない」と何回も言い聞かさていました。
その言葉は、私に父親の不在を突き付ける言葉となりました。
こんな私にも、いやこんな生い立ちの私だからこそ、やさしく接してくれる大人がいました。
子どもの時、母は家で居酒屋を営んでいました。そこに来る一人のお客さんが、店に来たら私を呼び、隣に座らせ、いろいろな話を聞かせてくれました。いつも、やさしく微笑んでくれました。その方が大好きだったのですが、私は本当の娘ではないからと、甘える気持ちにブレーキをかけていました。
今から思えば、素直にその時間は甘えさせてもらえるチャンスだったのだから、もっと甘えておけば良かったと後悔しています。
父親がいない私を意識し過ぎました。
自分が、親になってから、子どもが親をどう感じているか知る機会がありました。
養育里親の申請をすると、児童相談所から調査が入り、その際、調査員が息子と娘に「お母さんって、どんな感じ?」 と質問しました。
息子も娘も 「怖い」 と答えました。
そりゃ、悪さをすれば叱りますが、やさしくしている時の方がうんと多いと自負していたので、驚きましたし、とてもショックでした。
その後、 「怒る時は怖いけど、怖くない時もある。その時はやさしい」とモジモジしながら話してくれたので、少しホッとしました。
親と子どもでは、親のイメージがだいぶ違うのだと知った瞬間でした。
小さい頃の親の影響は大きく、叱られた時の子どもは、この世の終わりと感じるほどの衝撃で、大きな出来事として残るのでしょう。
子どもにとって、親から突き放されることは、生命存亡の危機。
子どもは叱られる時、大人が思っている以上に怖い思いをしているのだとわかります。
そして、親の言葉は、親が思う以上に子どもを縛ってしまうこともあります。
よく、子どもになめられてはいけないと必死になってしまう時がありますが、子どもが小さい時、自分が思っている以上に子どもは大人を必要としています。
そして子どもなりに怒られないように振舞ってみても、嘘をついてみたり、しらを切ってみたりして、ますます怒られることがよく起こります。
大人だって、怒りたくて怒りたいわけではありません。
大人が、子どものために心を砕き、いろいろと手を尽くしてやってきても、それがそのまま子どもに伝わることは稀なようです。
本当に理不尽だなと感じますが、親子の物語を聞くと、大昔からそういうものなのですね。
時間との向き合い方
時間との向き合い方
あなたの毎日は、忙しいですか?
家事を軽減して、趣味や休息に時間を使えるようにと開発される商品に注目が集まります
私も仕事をしながら、家事育児をしている時は、朝も晩も息を切らせて走っていました
自分のための時間を持つことができず、イライラもしていました
そこから時は流れ、体調を崩し仕事を辞めることになりました。その時、子どもも大学生になっていて、子育てや家事に追われない生活に身を置くことになりました
「せっかくだから、ゆっくり休んで」
「時間があるのだから、好きなことをしてみれば?」
など、善意の声かけをいっぱいかけていただきました
しかし、仕事を失った喪失感が先にきてしまい、何かを楽しめる気持ちになれませんでした
仕事とか育児とか、何かやらねばならないものが片方にあるから、休みを楽しめるし、何かをしてみようと思えるようです
さて、今日は何をして過ごそうか
仕事をしているといろいろなストレスに晒され、仕事をしていないと何もしていないという罪悪感と先々の生活に不安を感じる
本当にやっかいです
自分で意識して予定を作らないと、外に出ていくのも億劫になります
この生活をしている時、相談場面で出会ったAさんが思い浮かびました
大学の途中から精神病を患い、十数年引きこもった生活
働いていないからと贅沢はせず、時には家族の食事の支度をしていました
知人と連絡とることも止め、今の状態に怒りと悲しみと諦めが混ざり合っているように見えました
相談を重ねる中で、社会の中に参加していることを意識できるようになると、その方の表情も話す内容も変化していきました
社会に参加できているとイメージできると、自分の存在を認められたように感じられます
社会の中の一員でいられることの安心感は大きいものです
そうでない毎日は、どれほど息苦しかったのでしょう。十数年もよく耐えてきたと感心します
不登校で、学校に行けない子どもに対して、学校にも行かず好きなことをしていると言う人がいますが、学校に行けない時間の重圧は、想像してわかるものではないようです
あなたは、また今日が始まる恐怖を感じたことはありますか?
家電がない時代は、火を起こす、水を補給することも手間がかかり、体力も必要でした
自分たちの生活を成り立たせることで時間をほとんど使い、動かなければ生けてはいけなかった
この生活は快適ではありませんが、生活と命が直結して、わかりやすく生きる意味がありました
生活が快適になると、命を保つためではなく、「自分らしく生きる」理由を探すようになります
宇宙の営みから見たら、人の人生は短いものです
ですが、生きるための理由を見失った時の時間はとても長く感じます
時間とどう向き合っていくかは、生きる意味につながっていくのなら、誰かと比べるでもなく、自分がこれで良しとできるものを持てたら生きやすくなりそうですね
どこまでわかりあえるのか
どこまでわかりあえるのか
人は、一人では生きていけない。群れをなす動物のため、コミュニケーションは生きていく上で重要です。
では、人同士はどの程度わかりあえるものでしょうか。
誰でも、自分が感じることを軸にして物事を判断します。
ここのラーメンが美味しいと聞き、食べに行ってみたけど期待はずれだった。
親切心で言われたけど、面倒くさいと感じる。
特に自分のしんどい気持ちをわかってもらおうとする時、自分と相手の間に誤差が生まれます。
聞き手は、その問題の当事者ではありませんから、冷静に話を聞きます。
渦中にいる私は、この気持ちをわかって欲しいと必死になります。
この高ぶる感情を静めて欲しい。
求めているところはここなのですが、わかってもらえるどころか、説教や説得をされ、余計に感情が高ぶる結果になることがあります。
優先すべきは、解決策を練るよりも感情をセーブしていく方法です。
「それは、腹が立つよね」
「そんなこと言われたら、ショックだよね」
「もうすでに、あなたは十分頑張っているように見えるけど」
そんな言葉です。
しかし、聞く側が最悪の事態を心配して、不安が先に立つと、共感する言葉をかけられなくなったり、「また同じようなことを言っている」と取り合わないで、その事柄を重要視せずに逃げてしまいます。
強い感情は人から人に伝わり、その場の空気を支配します。
負の感情が蔓延していると、それだけで気持ちが落ち込みます。
だから、この空気をなんとかしたいとそちらに気が向きます。
例えば、小さな子どもが大泣きしています。泣き止まそうと、
① 「ほら、泣いたら恥ずかしいよ、〇〇だよ」とおもちゃを見せて気をそらそうとする
② 「どうしたの?怒っているの、嫌だったのだね」
どちらの対応をしますか?②のように子どもの状態を言葉にして伝えると、落ち着けていけることが多いです。何で泣いているかわからない時は、「悲しいの、泣けるね、よしよし、泣ける、泣ける、泣けちゃうね」と言い続けているだけで、子どもも私も楽になります。言っている私の方は、泣き止まそうとするよりも、困ったねと語りかけているので、焦ったりしないので楽です。その楽な感情も伝わっているのだと思います。
相手のことは、自分を介して理解しようとします。自分の性格や現在置かれている状況がそれぞれに違うので、相手の全てをわかることは不可能です。
どんなに愛されていても、私の気持ちを100%理解できる人は存在しません。
相談を受けていると、親は子どものことを案じて、親切心でかけている言葉が、子どもを深く傷つけていたということがよく起こります。
どちらが正しいということは、言えません。どちらも自分は正しいと思っているから、争いがヒートアップしていくのですね。
不安は隣にあるもの
不安は隣にあるもの
何かよくわからないけど、猛烈な不安に襲われる
ふとした瞬間に不安が出てくる
周りの人は元気そうで、自分だけが不安を感じているような気持になりますが、人は不安を感じて警戒し、優位に立つための方策をとって、生き延びてきました。遺伝子の中には、不安を察知するように組み込まれているのですから、不安に気を取られるのは自然なことです。
そして、不安に押しつぶされるか、そのシステムを知って利用しようとするかは、自分次第です。
自分以外の人が、どのような不安を感しているのか、覗くことができませんが、その不安に対応する行動には、個人差があります。
不安が押し寄せてくる時、その人は弱っている状態です。
よく、疲れると身体の弱い部分が痛むと言いますが、心も同じです。
子どもの頃、周りから送られたメッセージをどう受け止めてきたか。
相談場面での話です。
「人の前に出ることが苦手な私に母は、大丈夫だからと他の子が遊んでいるところに行くように背中を押しました。それでも行けないでいると、本当ダメな子だねぇと、怒っていました」
母親に悪気はなく、我が子を心配しての行動なのでしょう。
しかし、この相談者には失敗体験として残り、自分を責め続けていました。
「そのお母さんは、社交的な方なのですか?」
「いえ、自分が引っ込み思案で苦労したから、子どもにはその苦労はさせたくないと…」
「お母さんにもできないことをしろと言われても、困りますよね。怖いのに押されたら、余計に足がすくむのは当たり前のことだから」
人は、気持ちが大丈夫と落ち着かないと、チャレンジできないと言われています。
「人がいっぱいいると緊張しちゃうよね。お母さんも一緒に行くからあの子たちの所へ行ってみようかと言われたら、行けそうな気がしますか?」
不安になった時、「まぁ、何とかなる。大丈夫」と気持ちを切り替えられるには、できなければ手助けをしてもらい、できなくても大丈夫と受け入れてもらう経験がいります。
その方は、常にママ友と上手くやらなければと必死になっていたそうですが、まずは一人でお茶を飲む時間を作るようにしたそうです。
「安い珈琲を頼んで、ボーっとする時間を楽しんでます」
そう、話してくれました。
人間関係
人間関係
ストレス。その大きな要因の一つに人間関係があげられます。
特に身近に接する必要がある人との関係がぎくしゃくすると、毎日が苦痛でたまりません。
考えたくないのにその人のことを思い出し、イライラ、ムシャクシャ。
寝ようと思っても、思うように寝つけない、疲れやすい、何をしても楽しめない。
そんな毎日を過ごしたくはありません。
その人間関係で苦悩している渦中の相手は、どのような人物でしょうか。
その人は横柄、
人の言うことを聞かない、
意地悪、
自分勝手等、
よく嫌われるタイプの人はいますが、100人中100人全員から嫌われる人はいません。
皆が口を揃えて、その人が悪いと言ってくれればこちらの気も楽になりますが、思い通りにいかないのが世の常です。
相談の仕事をしていると、「困る相手をどうしたら変えられるか」求められることが、ほとんどです。何とかしたいと懇願するあまり、一方的に困る相手の今を肯定できない。
もし、自分が困ると言われている立場なら、どう感じるでしょうか。
私なら、自分を悪者扱いされて、ますます臍を曲げてその人を嫌いになります、きっと。
人間関係のトラブルで、双方の言い分を聞かせてもらうと、お互いに「自分は悪くない」と全力で思っています。
「先に嫌なことを言ったのは、Aだ」
「先に手を出してきたのは、Bだ」
相手の悪いところを言い合い、自分の落ち度は二の次になっています。
この場合、全力で思っている状態を緩めることを考える方が得策です。
自分が何故、その人の言動に腹が立つのかは、考えることができます。例えば、その人が時間を守らない人なら、何故自分は時間を守ることを優先的に考えるようになったのか。子どもの頃、帰宅時間を破るとこっぴどく叱られた、あるいは必要以上に親に心配された経験が、自分でも気づかないでいますが、自分の中で想起されているかもしれません。
自分が、何にひっかかっているのかが見えてくると、不思議と冷静になれます。冷静なると、全力で思って状態から解放されます。
同様にその困る相手にも、それをしてしまう理由があります。
生まれながらにして、相手の気持ちを推し量ることが苦手でわからない。
実は苦手なことで、できないと思われないようにすることに必死だった。
「はい、わかりました」と言えば、それ以上言われなくなるから、とりあえずそう言う。
等、困る相手が困っていることがあります。
人が集まれば、必ずトラブルが起こります。誰とも気が合うわけがありません。後は、どの程度の距離感を持って接していくかも大事なことになります。