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里親家庭の物語1
里親家庭の物語1
先日、立命館大学主催のフォスタリング・ソーシャルワーク専門講座で、里親家庭の体験を話す機会をいただきました。里父、里母、里姉それぞれの立場で感じたことを話しました。
里姉である娘とは、何回か一緒に話をする機会がありましたが、今回は、里父も初参加する形となりました。
里親をしたいと言い出したのは、里母の私。
里父も里姉も、巻き込まれた立場で話してもらいました。
里姉が、中学生の時に里子が我が家に来てくれました。
以前よりも里親制度の認識が進んでいるとは言え、世の中多くの方が、「里親って、どんなもの?」と思っていると思います。
自分の周りに里親をする家族がいたら、あなたなら誰に様子を尋ねますか?
我が家の場合は、中学生の娘に親戚や教師が、「里子を迎えてどうなっているの?」と聞いてきたそうです。
娘は、その時、私に何も言いませんでした。
高校生になり、皆の前で話すとなった時に初めて娘から聞かされました。
そして、「しんどかった」と泣き出しました。
母親なのに気づけなかった自分が情けなく、娘に対して申し訳なさでいっぱいになりました。
里父も、皆の前で話しながら、言葉を詰まらせる場面がありました。
「自分の子どもにしてやったことを里子にもしてやりたかった。
それが、里子にとっては過剰な刺激になっていたのかも知れない」
と、涙ぐんでいました。
夫なりに良かれと思ってしていたことが、今となって思えば、裏目に出てしまったようだと悔やんでいました。
娘も夫も、第三者が聞いているというシチュエーションがなければ、出てこなかった言葉です。
皆の前で話す機会がなければ、二人の気持ちをいつまでも知らないままでいたでしょう。
いろいろな事が起こり、皆、傷つきました。
里子にとって我が家に来たことの意味は何だろう。そして、私たち家族にとってもと苦しくなる時もあります。
里子とは離れて暮らすことになりましたが、離れて暮らしている今も交流は続いています。
数か月に1回程度ですが、一緒に出掛けています。
離れてからの再開時は、お互いぎこちなかったのですが、だんだんと肩の力を抜いて会えるようになっています。里子も私たちも、会える日を楽しみにし、笑いあえる日が訪れるようになるとは、夢にも思いませんでした。
改めて、人生は続いていくのだと感じています。
子育てと、仕事と
子育てと、仕事と
私の経験では、子どもを授かるというのは、これまでの生活が一変することでした。
妊娠中は、お腹が大きくなり寝返りができなくなります。
逆子になっていると言われ、猫のようなポーズをしてこてんと横に倒れる逆子体操なるものをしました。
検診時に体重が増えるとドクターに叱られるので、朝ご飯を抜いたこともありました。
陣痛から出産、痛かったですね。
陣痛で苦しんでいるのに、晩御飯を食べに出かけて行った夫の横顔を鮮明に覚えています。
何時間にも及ぶ出産の後、産道も胸もめちゃくちゃ痛かった。
女ばかりが、何でこんなに痛い思いをしなければならないのかと、デモ行進をしたい気分になりました。
出産後は、休む暇もなく、子どもの世話に追われて自分の時間がどこかに吹き飛んでしまいました。
眠くて仕方ないのに、寝かせてもらえなくてフラフラ
子どもと過ごしていると誰とも会話をしていなかった
トイレまで子どもが着いてきて、落ち着いてできない
朝は職場まで走り、晩は保育所まで走って、何で私こんなに走らないとならないのだろうと思っていました。
イクメンという言葉もない時代でしたが、夫は子育てや家事をしてくれる人で、有難がったのですが、褒められるのはいつも夫だけ。
私には、暗黙のマイナス評価がくだされ、何か、理不尽。
子どもが成人して、改めて思うことは、子育ての楽しみ方を知っておけば良かったです。
子育てをしている時は、子どもか仕事かの2択に責められて、両方中途半端になっているような気がしていました。
世の中は、子育ての責任を母親に求めてきます。
父親として、よく動く夫であっても、この日どちらが仕事を休むかで、二人とも休むことが難しい時、子どものことを心配して悩むのは私だけで、夫の方はあまり深く悩んでいるように見えないことが不思議でした。
どこか他人事のように感じているように見えると、父親としてどうなの?と腹が立ちます。
夫が悪気なく「手伝うよ」と言うと、あなたの子どもでしょうとカチンときてしまいます。
夫の方は、良いことをしようとしたのに機嫌が悪くなってしまう妻に困惑。
そういうことは、他のご家庭でもよく聞きます。
夫の悪気のなさは、性役割分担の不平等さからだけでは説明がつかない、モヤモヤ感がいつもありました。
人間も生物の一つとして、備わっているものを考えてみたらどうでしょう。
まず、私たち祖先は、600万年もの間、狩猟採集の暮らしを続け、1万年前かから農耕や牧畜が始まりました。いつ自分が襲われるかもわからない狩猟採取時代の名残を受け継いでいるといわれます。
例えば、幼児期の子どもは、男の子は電車や車、女の子はかわいい生き物や花に興味を持ちやすいのは、狩りをしてきた男性は動くものに反応し、女性は居住地の周りで食べ物を採取していた所以からきている。
私たちにこうして埋め込まれたものがあるのなら、母は、子どもをよく観察して、元気かどうか常に確かめようとしていつも子どものことが頭に浮かんでしまいますが、父は家族よりも仕事の方に気がいってしまう。父は、それが家族を守る方法として埋め込まれている。
そう考えると、夫の「手伝うよ」と悪気もなく言ってしまうことに合点がいきます。
そして、現代社会は女性も働くことが当たり前になり、教育期間が終われば次は就職する道が待ち構えています。就職活動をしてなかなか決まらない時は、自分を全否定されたような落ち込みを味わいますが、それは新たな身分を得られない焦りがあるからでしょう。社会の中の身分を得るように生きることを強いる現代で、未熟で発熱しやすく、手をかけなければ生きていけない子どもを抱えることは、これまでと同じように働くことが難しくなります。社会の中の私か、親としての自分かを必要以上に自分に突き付けてしまっていないでしょうか。
このカラクリを知っておくことは大事。
夫に、何故わからないの?と苛立つ時間がもったいなかった。どうしようもないことで悩んでいるのなら、その部分は捨ててしまえば良かった。
子育てには、人手が必要です。仕事と同じように、子どもを育てていくために使えるものは何か、それをどう使うか割り切って考え、すくすく大きくなっていく子どもを楽しんで眺めるようにすれば、もっと子どもにヤイヤイ言わないで済んだかもと思う今日この頃です。
親のイメージ
親のイメージ
「あなたのお父さんやお母さんは、どのような方ですか?」
と質問されたら、何て答えますか。
私は、父親と一緒に暮らしたことがなく、既に他界しているので、父親のことをあまり知りません。父とは、何回か食事を共にしたぐらいなので、血のつながりはありますが、その分、遠くにいて手が届かなかった人という印象をもっています。
子どもの頃から私は、他の家にはお父さんがいて、お父さんというものがわかるけど、私にはわからない。一生、わからないのかも知れないと感じていました。
私の子ども時代は、父親が外で働き、母親は専業主婦が当たり前と言われた時代だったので、女手一つで子どもを育てることにプレッシャーを感じていたのでしょう。
母は、私に
「あなたには父親がいない。だから、世間様から後ろ指をさされるようなことはしてはいけない」と何回も言い聞かさていました。
その言葉は、私に父親の不在を突き付ける言葉となりました。
こんな私にも、いやこんな生い立ちの私だからこそ、やさしく接してくれる大人がいました。
子どもの時、母は家で居酒屋を営んでいました。そこに来る一人のお客さんが、店に来たら私を呼び、隣に座らせ、いろいろな話を聞かせてくれました。いつも、やさしく微笑んでくれました。その方が大好きだったのですが、私は本当の娘ではないからと、甘える気持ちにブレーキをかけていました。
今から思えば、素直にその時間は甘えさせてもらえるチャンスだったのだから、もっと甘えておけば良かったと後悔しています。
父親がいない私を意識し過ぎました。
自分が、親になってから、子どもが親をどう感じているか知る機会がありました。
養育里親の申請をすると、児童相談所から調査が入り、その際、調査員が息子と娘に「お母さんって、どんな感じ?」 と質問しました。
息子も娘も 「怖い」 と答えました。
そりゃ、悪さをすれば叱りますが、やさしくしている時の方がうんと多いと自負していたので、驚きましたし、とてもショックでした。
その後、 「怒る時は怖いけど、怖くない時もある。その時はやさしい」とモジモジしながら話してくれたので、少しホッとしました。
親と子どもでは、親のイメージがだいぶ違うのだと知った瞬間でした。
小さい頃の親の影響は大きく、叱られた時の子どもは、この世の終わりと感じるほどの衝撃で、大きな出来事として残るのでしょう。
子どもにとって、親から突き放されることは、生命存亡の危機。
子どもは叱られる時、大人が思っている以上に怖い思いをしているのだとわかります。
そして、親の言葉は、親が思う以上に子どもを縛ってしまうこともあります。
よく、子どもになめられてはいけないと必死になってしまう時がありますが、子どもが小さい時、自分が思っている以上に子どもは大人を必要としています。
そして子どもなりに怒られないように振舞ってみても、嘘をついてみたり、しらを切ってみたりして、ますます怒られることがよく起こります。
大人だって、怒りたくて怒りたいわけではありません。
大人が、子どものために心を砕き、いろいろと手を尽くしてやってきても、それがそのまま子どもに伝わることは稀なようです。
本当に理不尽だなと感じますが、親子の物語を聞くと、大昔からそういうものなのですね。
時間との向き合い方
時間との向き合い方
あなたの毎日は、忙しいですか?
家事を軽減して、趣味や休息に時間を使えるようにと開発される商品に注目が集まります
私も仕事をしながら、家事育児をしている時は、朝も晩も息を切らせて走っていました
自分のための時間を持つことができず、イライラもしていました
そこから時は流れ、体調を崩し仕事を辞めることになりました。その時、子どもも大学生になっていて、子育てや家事に追われない生活に身を置くことになりました
「せっかくだから、ゆっくり休んで」
「時間があるのだから、好きなことをしてみれば?」
など、善意の声かけをいっぱいかけていただきました
しかし、仕事を失った喪失感が先にきてしまい、何かを楽しめる気持ちになれませんでした
仕事とか育児とか、何かやらねばならないものが片方にあるから、休みを楽しめるし、何かをしてみようと思えるようです
さて、今日は何をして過ごそうか
仕事をしているといろいろなストレスに晒され、仕事をしていないと何もしていないという罪悪感と先々の生活に不安を感じる
本当にやっかいです
自分で意識して予定を作らないと、外に出ていくのも億劫になります
この生活をしている時、相談場面で出会ったAさんが思い浮かびました
大学の途中から精神病を患い、十数年引きこもった生活
働いていないからと贅沢はせず、時には家族の食事の支度をしていました
知人と連絡とることも止め、今の状態に怒りと悲しみと諦めが混ざり合っているように見えました
相談を重ねる中で、社会の中に参加していることを意識できるようになると、その方の表情も話す内容も変化していきました
社会に参加できているとイメージできると、自分の存在を認められたように感じられます
社会の中の一員でいられることの安心感は大きいものです
そうでない毎日は、どれほど息苦しかったのでしょう。十数年もよく耐えてきたと感心します
不登校で、学校に行けない子どもに対して、学校にも行かず好きなことをしていると言う人がいますが、学校に行けない時間の重圧は、想像してわかるものではないようです
あなたは、また今日が始まる恐怖を感じたことはありますか?
家電がない時代は、火を起こす、水を補給することも手間がかかり、体力も必要でした
自分たちの生活を成り立たせることで時間をほとんど使い、動かなければ生けてはいけなかった
この生活は快適ではありませんが、生活と命が直結して、わかりやすく生きる意味がありました
生活が快適になると、命を保つためではなく、「自分らしく生きる」理由を探すようになります
宇宙の営みから見たら、人の人生は短いものです
ですが、生きるための理由を見失った時の時間はとても長く感じます
時間とどう向き合っていくかは、生きる意味につながっていくのなら、誰かと比べるでもなく、自分がこれで良しとできるものを持てたら生きやすくなりそうですね
どこまでわかりあえるのか
どこまでわかりあえるのか
人は、一人では生きていけない。群れをなす動物のため、コミュニケーションは生きていく上で重要です。
では、人同士はどの程度わかりあえるものでしょうか。
誰でも、自分が感じることを軸にして物事を判断します。
ここのラーメンが美味しいと聞き、食べに行ってみたけど期待はずれだった。
親切心で言われたけど、面倒くさいと感じる。
特に自分のしんどい気持ちをわかってもらおうとする時、自分と相手の間に誤差が生まれます。
聞き手は、その問題の当事者ではありませんから、冷静に話を聞きます。
渦中にいる私は、この気持ちをわかって欲しいと必死になります。
この高ぶる感情を静めて欲しい。
求めているところはここなのですが、わかってもらえるどころか、説教や説得をされ、余計に感情が高ぶる結果になることがあります。
優先すべきは、解決策を練るよりも感情をセーブしていく方法です。
「それは、腹が立つよね」
「そんなこと言われたら、ショックだよね」
「もうすでに、あなたは十分頑張っているように見えるけど」
そんな言葉です。
しかし、聞く側が最悪の事態を心配して、不安が先に立つと、共感する言葉をかけられなくなったり、「また同じようなことを言っている」と取り合わないで、その事柄を重要視せずに逃げてしまいます。
強い感情は人から人に伝わり、その場の空気を支配します。
負の感情が蔓延していると、それだけで気持ちが落ち込みます。
だから、この空気をなんとかしたいとそちらに気が向きます。
例えば、小さな子どもが大泣きしています。泣き止まそうと、
① 「ほら、泣いたら恥ずかしいよ、〇〇だよ」とおもちゃを見せて気をそらそうとする
② 「どうしたの?怒っているの、嫌だったのだね」
どちらの対応をしますか?②のように子どもの状態を言葉にして伝えると、落ち着けていけることが多いです。何で泣いているかわからない時は、「悲しいの、泣けるね、よしよし、泣ける、泣ける、泣けちゃうね」と言い続けているだけで、子どもも私も楽になります。言っている私の方は、泣き止まそうとするよりも、困ったねと語りかけているので、焦ったりしないので楽です。その楽な感情も伝わっているのだと思います。
相手のことは、自分を介して理解しようとします。自分の性格や現在置かれている状況がそれぞれに違うので、相手の全てをわかることは不可能です。
どんなに愛されていても、私の気持ちを100%理解できる人は存在しません。
相談を受けていると、親は子どものことを案じて、親切心でかけている言葉が、子どもを深く傷つけていたということがよく起こります。
どちらが正しいということは、言えません。どちらも自分は正しいと思っているから、争いがヒートアップしていくのですね。