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PERFECT DAYS
PERFECT DAYS
2023年も、もう少しで終わろうとしています。
あなたにとって、どのような年になりましたか。
私は、新しいことを幾つか始まった感じがしています。小さなことは、新幹線チケットをスマホアプリで購入し、交通系ITを使って改札を通れました。購入したものの、ちゃんと通れるか不安でした。みどりの窓口には、長蛇の列。もし通れなかったら、あそこに並ぶのかと気持ちが凹みます。でも、文明の利器はすごいですね、ちゃんと通れました。思わず嬉しくて、スキップしてしまいました。
電子マネーにも挑戦しました。娘にチャージや支払い方法を教えてもらいながらでしたが。「私もやればできるじゃん」と隠れてドヤ顔です。老眼で小さい文字が見えなくなっているので、スマホ操作するものを避けていましたが、何とかなるものですね。
先日、映画「PERFECT DAYS」を観てきました。東京の公衆トイレ清掃員のお話です。役所広司さん演じる平山のルーティンが淡々と流れ、冒頭はこのままこの人の日常で終わるのか?そんなわけないかと思いながら観ていました。淡々とした日常に見えますが、平山は気に入っているようでした。空を見上げ、木々を愛で、トイレが奇麗になることに満足している。
人との関わりも、拒否しているわけではないですが、かと言って誰かと親しくなる側面も薄い。でも、人と関わることで変化は起こり、それを感じずにはいられないのが人の性分。しまっていた気持ちや感情が浮かんでくるのだなと感じました。
映画を観終わった後、人生を描いた映画だな、わかるような、わからないような答えがないのだろうと悟ったような気分になりました。
「トイレの清掃員なんて仕事やってられるか」 と思う人は多いでしょう。
でも、掃除をしてくれるから公衆トイレを気持ちよく利用できるし、街の治安維持にも貢献をしている。なくなると困る人が出る生活に密着をした仕事です。
平山は、それを誰よりも実感して仕事をして、生活をしているように見えました。
もちろん、低賃金で暮らし方も質素で、口数も少ないですが、幾度となく微笑みが溢れます。
この映画は、胸打つ感動ではなく、いつまでも頭から離れないという作品でした。
人は、生きる意味を探りたくなりますが、そこが見える人はいないのだろうと思っています。
本来は、自分が他の動物の獲物とならないために知恵を絞って生き残ることが生きる意味だった。今は、飢えることや雨風や暑さ寒さをしのぐ心配をしなくて済みます。その代わり、それとは別のところで生きる意味を探さなければならなくなったのではないか。
私たちは、生き延びるためではなく、生き続けるための意味を求めている。
そこには、賢さがいるような気がします。
例えば、人よりも富を得ようとして満足しようとする。そこを目指して夢中になっている時は満足感を得られますが、ある程度の富を手に入れた後、何を求めるのか。巨大な富があれば誰でも幸せになれるわけではなく、お金を巡っての争いが起きることはよくあります。
その対極にいるのが、平山という公衆トイレ清掃員。本人が今の生活を納得して受け入れていることは伝わってきますが、平山が幸せかどうかまではわかりません。
人の数だけ人生があって、自分とどう折り合いをつけていくか。
まずは、そこから。
その先を楽しみながらでしょうか。
人生は終わらない
人生は終わらない
あなたは、自分の人生について振り返ってみたことはありますか?
若い頃は、人生という山の頂を目指しているような感覚でしたが、子どもの手が離れると、私は何をしていけばいいのだろう?と自身が浮き彫りになってきました。子どもや家族のことを優先させて過ごしていたが、子どもは友達との予定が忙しく、母親を求めることはグッとへってきます。家族から置いてきぼりをくらい、ポツンと一人取り残されることが増えます。自分のことを考えないとならない時期がやってきました。
子どもを産んだ時、要領よく立ち振る舞おうとしても通用せず、その感覚は横に置かないと子育てはできないだと知り、自分のことは後回しにする癖がつきました。その生活に慣れ親しんだ後、また感覚を見直さなければならなくなりました。同じままではいさせてくれないのですね。
先日、娘の幼馴染がバイトしているBarに行きました。彼女と娘は保育園時代から家族ぐるみで遊んでいて、性格は違えどとても気が合うようでした。彼女は、大学に進んでからいろいろと悩み、葛藤していました。そして、退学をして地元に帰ってきました。退学を決意するには莫大な勇気が必要だったと思います。これで私の人生は終わってしまうのではないかと不安に襲われもしていました。このまま大学在学期間満期になって去るのと、自ら次の道に進む洗濯をするのでは、未来が全く違います。現に、目の前で働いている彼女の笑顔はとても美しい。賢いから、外国人客とも英語で会話している姿はカッコいい。娘も大学生になり、研究室の人間関係で悩み、躓く時もあり、たまに泣いて、また前に進もうとしています。
この娘たちは、簡単に人生は終わったりしないと学んだでしょう。それは、生きる力です。
親として、未来を担う子どもたちに、私たちはいろいろな道を選択していける力があることを教えることが重要です。
私は、母親から「〇〇したら、人生終わりだからね」と何度も聞かされてきました。おどしによるコントロールです。それを私も子ども達にしてしまいました。親はそこまで思っていなくても、子どもの中に深く残ることもあります。もっと早くに、そうはならないと気づけていればと後悔しています。
離れて暮らすことになった里子にも、簡単に人生は終わらないと教えてもらいました。
離れる時は、実を切られるようでした。本当に人生が終わってしまったように感じました。その後、里子の状態が落ち着いてからボランティアという立場で、数か月ごとに出かけています。再会した時は、よそよそしい態度でしたが、出会いを重ねていくにつれ、「ここに来て欲しい」や「あそこに行ってみたい」など、ちょっとした甘えを出してくれるようになりました。何を聞いても「別に」「わからん」「ない」と答えていた子でしたが、そんな風に言えるようになったと感慨深い。里子は、いろいろな大人が手を焼きましたが、それ以上に可愛がれ、愛されたことが、里子の中に届き始めているのかも知れません。あの頃、また里子とこんな風に語れる日が来るなんて想像きませんでした。
当たり前のことですが、人生は続いていました。
傷つきにばかり目を向けるのは得策ではないのだと感じます。
今の自分にできることに目を向ける。
そして動く。それほど長く時間がかかることでなくていい、一歩動けば変化が始まる。
その繰り返しをすればいいだけ。
いい時ばかりではないし、気持ちが塞ぐ時もある。
でも、終わりなんかしないのでした。
あなたは、疲れやすいですか?
あなたは、疲れやすいですか?
猛暑が続いたと思ったら、次は寒暖差。疲労や倦怠感が私の身体を覆ってくるようで、その感覚に負けたくないと思う今日この頃です。皆さまは、元気にお過ごしでしょうか。
疲れていると感じる時は、何もせずに一日寝ていたいと思いますが、実はじっとしている方が疲労がたまると聞いて驚きました。確かに、ぐうたらと過ごすと夜になっても寝れず、寝ても眠りが浅くなり、翌朝が余計にしんどくなることがあります。ほどよく身体を動かしている方が良さそうです。
私は肩と首が年がら年中こっているので、寒くなる季節が苦手です。毎朝ストレッチやヘッドマッサージをして努力をしているのですが、残念ながら痛くなるものは止められません。これも運動不足なのかも知れません。
その体質も受け入れつつ、最近の気だるい疲れはどこから来ているのだろう。確かに、ここのところのんびり休日という日はありませんでした。でも、寝る間も問えないほどの激務かと言われれば、そこまでではありません。
移動するにしても、電車や車ですし、眠る場所も天敵に襲われるような野宿でもなく、お風呂にも入れて、温かい布団にくるまっています。時折、猫が上に乗ってきて息苦しい時もありまけど。
当たり前のように過ごしていますが、これらのことはとても贅沢なことなのでしょう。ますます体の疲れだと言ってはいけないような気がしてきました。
そうすると、頭の方の疲れですかね。体調を崩し、仕事を辞めて家で過ごしていた時、よく眠れずに辛かったので、できるだけ身体を動かしたら疲れて眠れるのではないかと、ウォーキングをしたり、自転車にのったりしましたが、結果はいまいちでした。動かし方が足りなかったのかも知れませんが、その時も頭の方が疲れて肩こりのように思考が固まっていたような気がしています。
仕事を辞めて家にいた時は、何もかも自由気ままにできる環境下でしたが、外に出るのがおっくうになりました。何もしたくないような、何をしたらいいかわからないような、何か気持ちが縮こまっていたような気がします。家にいてもいい事は起きないので、とにかく外に出ることが自分へのミッションになっていました。
それから、外に働きに出始めると、何処に行こうと思わずに目的地に向けて出かけられることが嬉しかったです。でも、拘束時間が長引くと疲れてきますし、自由な時間も削られます。追われるような日々を過ごしていると疲れたな、ゆっくり休みたいなと感じますが、その感覚は私の頭によって作られたもののようです。子どもの頃、身体が弱かったので疲れたらゆっくり体を休めないといけないと刷り込まれていて、その行動パターンを実行しなければならないと思い込んでいました。
今回、本当に身体が重くて仕方がなかったのですが、頭を休めるために電車の中でボーとしたり、頭をすっきりさせるため、思いつくままノートに書き出す作業をしてみました。そして、このだるさは身体の疲れではないと思うと自分で考えるようにしました。
そうしたら、身体が軽くなりました。予想以上の効果覿面。いつまでも続く倦怠感に振り回される方だったので、この思考の切り替えを続けてみようと思います。肩こりと首こりもマシになると一石二鳥ですが。自分で、疲れを倍増してしまっていたのかなぁと感じています。
家族とお金の話
家族とお金の話
様々な家族のお話を聞いています。外から見ているだけではわからない内情をお聞きします。その度にいろいろなことを人はしてしまうものだと驚かされます。
そして、多かれ少なかれ、家族の悩みの横に「お金」の存在があり、生活をしていくためのお金をできるだけ多く持ちたいと願うのは、当たり前のことです。お金がなくて苦労したという話もよく聞きます。
お金がなくて進学を断念すると、仕事の選択肢が狭まりやすくなり、悲観したくなることも起こります。
お金が持つ力は大きい。
しかし、お金があることが原因で、家族関係が歪められることもあります。
お金が強くなり過ぎると
プレゼントの金額で愛情を図ろうとしたり、
高価なモノを身に着けて、自分の価値を高めようとしたり、
お金を持っている人に媚を売ることに必死になり、周りが見えなくなります。
愛情や自尊心をお金で手に入れようとする行為ですが、お金の切れ目が縁の切れ目、お金がなくなれば、周りにいた人々は雲の子を散らすようにいなくなってしまうことを、私たちはよく知っています。
それでも、家族の中でお金の力が中心に置かれているなぁと感じることがあります。
財産を牛耳っている祖父に誰も逆らえないと、
両親は、祖父の顔色を伺うことに必死になり、子どもより祖父に目が向いてしまう。
言い換えれば、子どもを守る第一責任者であるはずの両親が、親であることよりも、祖父の子どもでい続けることを優先させる状態になります。
困ってしまうのは、子どもです。とても寂しい思いをすることになります。
別の家族では、子どもが親にお金を要求する。ほとんどの親が、無駄使いを嫌い、お金を渡そうとしませんが、「お金をくれないのなら、家を出て行って、危ないバイトをする」と脅され、お金を渡してしまう母親がいました。
これは、暴力と同じで金額がエスカレートしていきます。その子の周りは、お金目当てで近寄ってくる人ばかりで、その子も友達と称する人から脅され、お金を渡していました。
お金は生きていくために必要ですが、持っているお金が増え続ければ幸せになれるわけではありません。お金は、助けにもなる時もあるし、毒にもなることをよく覚えておくことをお勧めします。
子どもは、大人の本心を見破ることが得意です。「私より、お金の方が大事なのね」と思わせたくはありませんよね。
家族感覚
家族感覚
あなたは、「家族を紹介してください」と尋ねられたら、誰を思い浮かべますか?
家族と親戚では、気持ちが通う距離感はが違ってくると思います。家族はより親密。親戚は親しい関係もあれば、疎遠でいつ顔を合わせたか思い出せないということもあるでしょう。
家族でも、なかなか顔を見られていないということも起きるでしょうが、気持ちの上での距離感は、全く違うのではないでしょうか。
私は、何を持って家族と感じるようになるのだろうと考えることがあります。
その理由に「実父」の存在があります。父とは一緒に暮らしたことがありません。中学になるまで父の顔は写真でしか知りませんでした。中学から父と食事するようになり、亡くなるまで孫を交えての交流をしてきましたが、食事をして終わることがほとんどでした。交流の時間は、あっけなく終わり、その積み重ねでした。孫である私の子どもが祖父をどう感じているかわかりませんが、私にはよそよそしい感覚が付きまとっていて、父とは思えますが、家族と言われるとピンとこないというのが正直なところです。父を嫌っているわけでもないのですが、家族だと言われると、どうしてもしっくりきません。
では、母親はどうでしょうか。母子家庭で育ったので、母は家族という感覚はあります。子ども時代は、母から離れたくて仕方がなかった時もありましたし、母の考えを押し付けられることに嫌気がさしていましたが、今はほどよい距離感で過ごせています。
家族の感覚は、良いイメージだけで成り立っているわけでもないのですね。
私は、「家族」と言われて、一番しっくりくるのが夫と子ども達です。子育てに追われる時期はとうに過ぎ、子どもはそれぞれ成人して、自分の道を歩いています。
そして、一緒に暮らしていた里子ちゃん。離れて暮らすようになってからは、家族と呼べる立場でなくなってしまいましたが、一緒に出かけたりしているので、里子の顔を見ると「家族」の感覚がよみがえってきます。父と同じように限られた時間の交流ですが、感覚が全く違うのは、不思議だなと感じます。
「家族」は、良くも悪くも「特別な存在」なのでしょう。
日々の物語を一緒に紡いでいる感覚を共有できる相手。
そして、誰よりも理解してほしいと願い、期待してしまう相手。
血のつながりがあれば家族だと感じられるわけではない。
娘に「家族」と言われたら?と問うと、
犬と猫もしっかり含まれていました。
モノ言わぬ相手ですが、感情を伝えてくる相手でもあり、共感します。
私は、親として子どもを育ててきた家族に、強い思い入れがあります。
子どもを必死に育ててきた感覚は、大きな意味を持っていて、何物にも代えがたい。
だからきっと、息子や娘が新たな家族を築き、孫が生まれても、子どもへの想いは変えられないような気がします。
孫が天使のように可愛くても、それはまた別の話。
自分の母親や知人を見渡してみても、育ててきた子どもへの情愛は気持ちの底に残り続けているように映るので、あながち間違いではないでしょう。
家族は、あなたにとって特別なもの。
だから、気持ちがわからないと不安に感じる。
気持ちがわからないと感じている相手も、あなたを家族と感じているなら、それだけで特別な相手という感覚を抱いているものです。