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何て言われてきた?
何て言われてきた?
あなたは、親に言われてきたことでどのような言葉を思い出しますか?
私は、「恥ずかしい」「恥ずかしい事しないで」です。褒めてくれたこともあると思いますが、ネガティブな言葉の方が先に出てきます。きっと息子や娘も私と同じようにネガティブな言葉を覚えているような気がします。
これは言った方と言われた方の違いですね。親としては、子どもをいっぱい褒めてきたつもりでいますが、子どもの方は気持ちを傷つけられた言葉を根に持ちやすい。
ネガティブな事を子どもに言ってしまうことは、誰にでもありますが、その頻度は気にした方がいいのではないかと感じます。
「ダメねぇ、あなたは何をやらせてもできないわね」
「可哀想ね」
「あなたのせいでいつも上手くいかなくなるわ」
「わがままで困ったものね」
「あなた一人じゃ何もできないのだから」
「あなたのためを思って言っているの」
などと言われ続けると、自分を信じられなくなります。
何もできない私のできあがりです。
これらの言葉は、私のためではなく言っている人のためのものです。言っている人自身が無能ではないと確認するために、すぐそばにできない人を作り、自分の存在意義を感じる役割を与えようとしてしまうのです。
私の母は、90歳になりますが子どもを自身の分身として扱いたい気持ちが続いているようで、ランチに出かけると、私と同じものを注文したがります。母が好きではない味だとわかっているので、違うものにした方がいいと伝えると「あんたは冷たい」と責めます。母にとって都合がいい出来事には、「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えてくれますが、意見が分かれることを言うと母に利益があっても責められます。子どもの頃、母が考えていることと違うことを言うと叱られたことを思い出します。些細な場面から、母が私をコントロールしようとしていることを感じます。母自身も無意識にしていますが、落とし穴にはまらないように用心した方が賢明です。
子どものためと口では言いながら、実際は自分を守るために子どもの行動をコントロールしようしていることが見えたら、そこの土俵に乗らないようにしたらいいですし、自分が子どもの行動を知らない間にコントロールしようとしているかもと心配になったら、子どもとの距離感に幅をもつように意識することが大切です。
自分自身のものの見方を広げるように感性を磨きましょう。本を手に取るだけでも、自分が体験していない世界に触れることができます。そして、子どもには様々な社会に触れる経験を大事にして欲しいと感じます。世の中は理不尽なことが多いですが、その中を生きる術も覚えていくことが大切になります。常識や社会の価値観以外の生き方や道があることを知ることが支えになります。
様々な人の生き方を知り、それを尊重していくと、自分から出てくる言葉が変わります。
同じ出来事でも、見える部分が違ってくるので、この子の頑張りや凄さや素敵さが見えやすくなります。声掛けをする方もネガティブよりもポジティブになれることを願っていることが多いですし、それができると相手に信頼を抱き、自分に自信を持てるようになれるようで、いい表情になります。その顔は、とても美しいと感じます。
パーマネンシー(子どもを護り続ける難しさ)
パーマネンシー(子どもを護り続ける難しさ)
子どもの人権に注目が集まるようになり、児童福祉法にも子どもの人権が謳われています。その権利の中にパーマネンシーの保障があります。養育者や住む場所の継続性、永続性を実現しようとするもので、子どもへの安定したケアの保障です。
社会的養護という言葉をご存じでしょうか?
何らかの事情で、やもえず家庭で生活できない子どもを社会の責任で育てていくことです。
社会的養護の場として、乳児院、児童養護施設、児童心理治療施設等の他、養育里親やファミリーホームも含まれます。
施設養育では、主たる養育者が継続的に子どものケアをすることは物理的に困難です。職員は通ってきますし、休日もあり、勤務形態も様々で、子どもが求める時にその職員がいるとは限りません。
養育里親は、家庭に子どもを迎えるので一緒に住むことになります。里親が休日だから家にいないということにはなりません。その環境があれば、パーマネンシーが保障されるわけではありません。
私も養育里親をしましたが、里子が中学2年の時に離れて暮らすことになりました。家庭と言う場所では、里子を守れない状況に陥り、身も心もボロボロになりました。それは、里子も一緒に暮らしていた実子も同様です。
里子と離れた時、
里子は我が家に来て良かったのだろうか。余計に辛い思いをさせてしまったのではないか。
里子に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
考えないようにしても、いつの間にか頭の中でグルグルと考え出し、何をどう整理したらいいのかわかりません。
里子は、その後施設入所となり、里子の新生活が落ち着いた頃から、私たち家族はボランティアという形で里子と一緒に外出をする交流を重ねました。最初は、お互いによそよそしい感じでしたが、里子が私たちと会おう思ってくれたことに感謝です。
里子と離れた時に頭をよぎったのは、里子が嫌いになって離れたわけではないと知って欲しいということでした。
里親でなくなり、里子にとって何の力も持たない存在。それなのに、あるいはそれだからか、里子が「水族館に行きたい」「ソフトクリーム食べたい」等を言うようになりました。一緒に暮らしている時は、「別に」「知らん」ぐらいしか語らなかったのですが、学校での出来事等も話してくれました。
里親でなくなったからなのか、時間が必要だったのか、はたまたその両方かわかりませんが、やっと頼っても大丈夫と思ってくれたのだと感じました。
気が遠くなるほどの時間がかかりました。
養育者ではなくなりましたが、里子と繋がりを感じることがやっとできました。
それは、里親家族を救うものでもありました。
里子が自立してからも、連絡を取り合って出かけています。これからもトラブルは起きるでしょうが、困ったら相談してくれることは、このチームが力をつけていることだと思います。
社会的養護の場でのパーマネンシーの保障は、本当に難しいと骨身に沁みました。
難しい中でも、繋がることを少しでも選んで、行動し続ける。
そんな、些細なことが大事なのだろうと感じています。
コミュニケーションは、得意ですか?
コミュニケーションは、得意ですか?
コミュニケーションが苦手だと聞くことは多いですが、コミュニケーションが得意と言う人にはほとんど出会ったことがありません。とても上手だと感じる方でも、自分のマイナス面があると思っているものです。
人と関わらなければ生きてはいけないけど、ずっと一緒にいると息苦しくなる。
誰にでもある感覚で、この両極端に揺れる気持ちが自信をなくさせるのでしょう。そして、誰もがコミュニケーションにある種の苦手意識を持っている。それなりに社会と接点を持ち続けられていれば、まずまずと言えるでしょう。
いろいろな親子と出会い、引っ込み思案、お喋り、目立ちたがりの子、知的しょうがいや発達しょうがいのある子と、出会う子どもの数だけ個性がありました。親御さんの方も様々で、「何怖がっているの?何にも怖くないのだから行ってきなさい」と言う人もいれば、子どもの不安に我慢強くつきあっている人もいます。子どもにつきあおうとすると時間がかかるので、申し訳なさそうに謝ってくるので、「気にしなくていいですよ。初めての場所だもんね、知らない所いやよね」と子どもに声をかけると、ホッとしたような表情を親御さんが見せます。
この親子の物語には、悲しい経験もいっぱいあったのだろうと感じます。
その悲しい物語に付随するのでしょうが、
「子どもが行きたがらないから辞めました」
「子どもがやりたがらないからしていません」等
子どもの意志を尊重してしないという選択肢を繰り返している親子もいます。
子どもの意志を尊重していると言えば聞こえがいいですが、子どもにとって必要なものまでもなくしてしまうことになっている時があります。
わかりやすく言うと、命に係わる治療が必要な子どもに、子どもが嫌がるからと治療しない選択肢を選べるでしょうか。
子どもが嫌がるからという言葉の裏には、親自身が避けたい気持ちが潜んでいることがあります。私も、息子が幼児の時にサッカーチームに入ったのですが、やりたがらないからと辞めたことがあります。今思い返せば、スポーツ観戦をあまりしない私の忍耐のなさの方が大きな理由だった気がします。子どもが楽しそうにやってくれたらと内心思っていましたが、私の負のオーラが子どもに伝染したのかも知れません。子どもは親の意向を無意識の内に汲もうとします。親のネガティブな感情が子どもに影響を与えるのですね。
コミュニケーションが下手だと感じる時は誰にでもあって、そこを悲観する必要などないと教えたらいいのだとわかってきました。親は、子どもが社会と関わっていく道を一緒に探し、そこを護る責任があるのだと感じます。
ひとりぼっちは寂しい?
ひとりぼっちは寂しい?
「うさぎは寂しいと死んでしまう」と言いますが、あれは都市伝説だそうです。人は、古来から群で暮らしていますし、独りぼっちと感じると寂しくなるので、動物を擬人化して見てしまうことがありますよね。
あなたは、「ひとりぼっち」にどのようなイメージを持っていますか?
私は、ひとりで寂しいと感じる時もありますが、ひとりになりたい時もあります。
気持ちが落ち込んでいる時に誰かといて、ひとりになると余計に寂しくなったり、誰かといても寂しさが抜けなかったり、思うようにいきません。
それは、その時の自分のコンディションが影響するなと感じます。
ある人から、一人でいるのは寂しいだろうからと親切心で何回か夕食に呼ばれることがありました。最初の内は受け入れることができたのですが、だんだんと「何で、私の寂しさをこの人が決めるのだろう」と違和感という文字が浮かびました。私が寂しいと疑わない正義感を有難迷惑と感じるようになっていきました。
私も寂しさを感じないわけではありません。
身体を壊して休息している生活の時、他者との関わりが持てない環境下が寂しくて、 人恋しくなりました。
でも、仕事が始まり何かと人と関わる場所に身を置くことが増えると、新たな人間関係が生まれ、煩わしくなることもあります。
我ながら、身勝手なものです。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、置かれた環境で感じ方が違います。
ひとりでいることと人との関わりのバランスは、人それぞれ違うものでしょう。
その人の気持ちを他者が決めつけることはできません。
寂しいというような感情は、自ずと出てくるものです。
ただ、その感情をネガティヴかポジティブか、どちらの方向に位置付けるかは、自分で決められるものでした。
ひとりぼっちを世の中が言うように寂しいものと決めつけるのか。
ひとりぼっちの時間を楽しい時間、落ち着ける時間、心地よい時間と捉えるのかは、
私自身が決められる。
他の人の意見は、関係ない。
空が青くてきれいだな。
好きなものを自分のリズムで楽しめて贅沢な時間だな。
そんな言葉を口に出すだけで、自分の中の何かが動き出します。
世の中で当たり前のように言われていることの多くが、実は都市伝説なのでは?と感じます。自分がどう捉えるかを意識し続けていれば、私はもっと自由になれるのでしょう。
パワー
パワー
前々回は家族システムの境界(バウンダリー)、前回はサブシステムについて書きました。今回は、パワーについて紹介します。
パワーは、文字通り「家族の中の力量」について注目することになります。パワーというと家父長制度のようなものを想像するでしょうか。それも一つの形です。家族の中の選択肢がどのように決まっていくか考えてみてください。今の時代は、誰かの一存だけで決められることは少なくなっています。とても強い祖父や祖母が存在する家族もありますが、減少傾向にあるようです。
あなたの家族は、子どもの進学や就職を決める時、何を優先しますか。子どもの意志、親の希望、世間体、いろいろな要素に影響を受けるものですが、どの部分の割合が高くなるかは、それぞれの家庭で違います。
家族としての選択肢に「お金」が深く関与することがあります。現代社会は、どれぐらいお金を持っているかで、生活のモノの豊かさが変わってきます。安定した賃金が得られる会社に入るためには、勉強をしていい大学に受かることが大切だと感じている方は多いでしょう。若い時に勉強が嫌いでしなかったという人でも、大人になってからもっと勉強をしておけば良かったと後悔し、子どもには勉強をさせようと躍起になっている方を見かけます。親になると、子どもの時の気持ちをどこかに置いてきてしまうようです。
その時世を受けてか、子どもが大金を使ってしまうという相談を耳にすることが増えている印象を受けています。そのお金の使い道は、ブランド品の購入や推し活に使う等、目新しさはありませんが、何十万という額の大きさに驚かされます。親も子どもが大金を使うことを好みません。子どもに大金を使わせないようにしますが、お金を渡さないと、悪い関係に引きずり込まれるのではないかと不安になり、最終的にお金を渡してしまう。これが繰り返されると、暴力と同じで、どんどん要求する金額がエスカレートしていきます。
この場合は、お金を握っているのは親ですが、出させる方法を子どもは心得て、子どもの方が親よりもパワーが強くなっています。親は子どもを護るべきものですが、逆転現象が起こっています。
時代の変化と共に、腕力や財力を持っている人が、パワーを持てるという単純なものではなくなってきています。時には、被害者であることをアピールすることで、周りをコントロールする人もいます。悲劇のヒロインなので、特別扱いされることを望みます。
家族のパワーを見ようとする時、複雑な関係性を紐解きながら、お金がどのように巡っているのかを見ようとすることが大切です。人が集まれば、必ず関係性が生まれます。先ほどの子どもが大金を使う例でも、親に自分を子どもとして護って欲しいと願っているのではないかと感じる時があります。親は、どのような理屈を並べても、ダメなものはダメなのだと伝えるパワーがいるのでしょう。子どもの意志を尊重することも大切ですが、どこからがダメなのかを明確に伝えていくことは、親の責任なのだろうと感じています。