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ひとりぼっちは寂しい?
ひとりぼっちは寂しい?
「うさぎは寂しいと死んでしまう」と言いますが、あれは都市伝説だそうです。人は、古来から群で暮らしていますし、独りぼっちと感じると寂しくなるので、動物を擬人化して見てしまうことがありますよね。
あなたは、「ひとりぼっち」にどのようなイメージを持っていますか?
私は、ひとりで寂しいと感じる時もありますが、ひとりになりたい時もあります。
気持ちが落ち込んでいる時に誰かといて、ひとりになると余計に寂しくなったり、誰かといても寂しさが抜けなかったり、思うようにいきません。
それは、その時の自分のコンディションが影響するなと感じます。
ある人から、一人でいるのは寂しいだろうからと親切心で何回か夕食に呼ばれることがありました。最初の内は受け入れることができたのですが、だんだんと「何で、私の寂しさをこの人が決めるのだろう」と違和感という文字が浮かびました。私が寂しいと疑わない正義感を有難迷惑と感じるようになっていきました。
私も寂しさを感じないわけではありません。
身体を壊して休息している生活の時、他者との関わりが持てない環境下が寂しくて、 人恋しくなりました。
でも、仕事が始まり何かと人と関わる場所に身を置くことが増えると、新たな人間関係が生まれ、煩わしくなることもあります。
我ながら、身勝手なものです。
喉元過ぎれば熱さを忘れる、置かれた環境で感じ方が違います。
ひとりでいることと人との関わりのバランスは、人それぞれ違うものでしょう。
その人の気持ちを他者が決めつけることはできません。
寂しいというような感情は、自ずと出てくるものです。
ただ、その感情をネガティヴかポジティブか、どちらの方向に位置付けるかは、自分で決められるものでした。
ひとりぼっちを世の中が言うように寂しいものと決めつけるのか。
ひとりぼっちの時間を楽しい時間、落ち着ける時間、心地よい時間と捉えるのかは、
私自身が決められる。
他の人の意見は、関係ない。
空が青くてきれいだな。
好きなものを自分のリズムで楽しめて贅沢な時間だな。
そんな言葉を口に出すだけで、自分の中の何かが動き出します。
世の中で当たり前のように言われていることの多くが、実は都市伝説なのでは?と感じます。自分がどう捉えるかを意識し続けていれば、私はもっと自由になれるのでしょう。
パワー
パワー
前々回は家族システムの境界(バウンダリー)、前回はサブシステムについて書きました。今回は、パワーについて紹介します。
パワーは、文字通り「家族の中の力量」について注目することになります。パワーというと家父長制度のようなものを想像するでしょうか。それも一つの形です。家族の中の選択肢がどのように決まっていくか考えてみてください。今の時代は、誰かの一存だけで決められることは少なくなっています。とても強い祖父や祖母が存在する家族もありますが、減少傾向にあるようです。
あなたの家族は、子どもの進学や就職を決める時、何を優先しますか。子どもの意志、親の希望、世間体、いろいろな要素に影響を受けるものですが、どの部分の割合が高くなるかは、それぞれの家庭で違います。
家族としての選択肢に「お金」が深く関与することがあります。現代社会は、どれぐらいお金を持っているかで、生活のモノの豊かさが変わってきます。安定した賃金が得られる会社に入るためには、勉強をしていい大学に受かることが大切だと感じている方は多いでしょう。若い時に勉強が嫌いでしなかったという人でも、大人になってからもっと勉強をしておけば良かったと後悔し、子どもには勉強をさせようと躍起になっている方を見かけます。親になると、子どもの時の気持ちをどこかに置いてきてしまうようです。
その時世を受けてか、子どもが大金を使ってしまうという相談を耳にすることが増えている印象を受けています。そのお金の使い道は、ブランド品の購入や推し活に使う等、目新しさはありませんが、何十万という額の大きさに驚かされます。親も子どもが大金を使うことを好みません。子どもに大金を使わせないようにしますが、お金を渡さないと、悪い関係に引きずり込まれるのではないかと不安になり、最終的にお金を渡してしまう。これが繰り返されると、暴力と同じで、どんどん要求する金額がエスカレートしていきます。
この場合は、お金を握っているのは親ですが、出させる方法を子どもは心得て、子どもの方が親よりもパワーが強くなっています。親は子どもを護るべきものですが、逆転現象が起こっています。
時代の変化と共に、腕力や財力を持っている人が、パワーを持てるという単純なものではなくなってきています。時には、被害者であることをアピールすることで、周りをコントロールする人もいます。悲劇のヒロインなので、特別扱いされることを望みます。
家族のパワーを見ようとする時、複雑な関係性を紐解きながら、お金がどのように巡っているのかを見ようとすることが大切です。人が集まれば、必ず関係性が生まれます。先ほどの子どもが大金を使う例でも、親に自分を子どもとして護って欲しいと願っているのではないかと感じる時があります。親は、どのような理屈を並べても、ダメなものはダメなのだと伝えるパワーがいるのでしょう。子どもの意志を尊重することも大切ですが、どこからがダメなのかを明確に伝えていくことは、親の責任なのだろうと感じています。
サブシステム
サブシステム
前回は家族システムの境界(バウンダリー)について書きました。今回はサブシステムについて紹介します。
サブシステムとは、家族という大きなシステムの中で、より小さなシステムの単位のことです。夫婦、両親、きょうだいの関係に注目をします。
結婚して夫婦になり、子どもが生まれて父母となります。夫婦は男女の関係で、両親はその名の通り親としてどう機能するかが求められます。離婚をしたら、夫婦サブシステムはなくなりますが、両親サブシステムは残ります。
子どもができると、母親は夫よりも子どものことが気になるようです。子どもを護るために全力を尽くそうとするのが、母親なのかもしれません。子どもは、十数年したら親よりも友人や恋人を優先させるようになります。子どもが自立していくのは嬉しいことですが、一抹の寂しさも運んできます。
子どもが自分の世界を展開させるようになると、両親サブシステムから夫婦サブシステムが機能していくことが求められます。結婚当初は、好きあって夫婦を始めますが、子どもの巣立ち後は、恋愛感情も炭のようになっていて、お互いにどう向き合えばいいのか悩むものではないでしょうか。お互いに相手にやさしい気持ちを持てるような工夫がいります。相手に向けた言葉をどれぐらいかけられているでしょうか。その言葉に自分の愛情をのせるのではなく、関係を円滑に回すイメージで声をかけられることがポイントになります。
「ありがとう」「好き好き」「大好き」「素敵だね」「頑張っているね」「すごいね」
言われて嬉しくなるような言葉。口で言いにくければ、文字から始めてみるのも一つの手です。
サブシステムにはきょうだいサブシステムもあります。子ども同士の関係です。仲がいい時もあれば、ケンカする時もあるものですが、きょうだいの関係は親の影響を受けやすいものです。きょうだいを平等に扱っているつもりでも、
「あなたの方がお兄ちゃん(お姉ちゃん)なのだから、下に譲ってあげなさい」
「お兄ちゃん(お姉ちゃん)は、できるのに、あなたはどうしてできないの」
と、口走ってしまうことが起こります。
「ママもパパもお兄ちゃん(お姉ちゃん)ばかり気にしている」
「ママもパパも妹(弟)の方ばかり可愛がって・・・」
と、子どもから叱られます。上の子も下の子も自分より相手の方に両親の愛情が注がれるのではと怖がります。親の愛は、伝わりにくいものです。
サブシステムが機能するためには、関係のバランス感覚が必要になります。関係を良くしようと相手が変わることを求めてしまいがちですが、手っ取り早く変えるには自分が変わることです。自分を変えることは、私にしかできません。そして、その変化は波紋のように広がり周りに影響していく。誰もが相手といい関係でいたいと願っています。その出し方で、その場の空気の重さが変わります。誰とでも、関係を築いていくには、地道な努力が必要ですね。
境界(バウンダリー)
境界(バウンダリー)
家族システムの中に境界(バウンダリー)、サブシステム、パワーという視点があり、これらが家族の中に機能しているかどうか考えます。今回は、その中の一つの境界に注目してみます。
◆内と外の境界
家の中と外に境界が保たれてるか。例えば、子どものたまり場になっていて困っている場合、この境界が守られていないことになります。
親が、子ども達に「この家のルールとして、この時間以降は帰ってもらいます」と宣言が通っていれば、夜遅くまでたまり場になることにはなりません。
◆世代間境界
これは、サブシステムが機能しているかにも関わってきますが、子どもにトラブルが起きた時に母親が自分の親(祖母)に相談をして、父親はトラブルについて何も知らされていなかった。あるいは、母親自身の悩みを子どもに相談をして、夫は何も知らされていない等が、境界線破りとなります。
サブシステムとは、家族という大きなシステムの中で、より小さなシステムの単位のことです。夫婦、両親、きょうだいに注目をします。
家族の方の話をお聞きする際、家族システムの視点に注目をしますが、家族の数だけシステムのあり様が違います。子どもの問題について両親で相談しているお宅でも、方向性が揃わないことが多々起きます。価値観は人によって違うのは当たり前ですが、擦り合わせることは難しいようです。そうなると、ファミリーセラピストを自分の味方につけようとする方がいます。もちろん、露骨に味方についてくださいと言うわけではありませんが。
ある父親が「私や祖母が言っても聞く耳を持たないのです」と母親の困りごとを語ります。その言葉の先にセラピストを巻き込みたい気持ちが伝わってきます。子どもの問題に向き合う際、父母でタックを組むのではなく、父と祖母が組んでいます。
また、父母で話し合っていても、「どうしたらいいですか?」と正解を求められることがあります。他の相談機関ではこうしたらどうですかと言われたと説明されますが、その提案を実行に移すまでに至ってなく、目の前にいるセラピストに同じ質問を繰り返しているとわかります。父母でタックを組んでいますが、家族としての方針を外に委ねようとします。確固とした正解がこの世の中にはあり、それを間違えたくないと思っているのかもしれません。何が正解なのかわからないのが、子育てというものです。子どもが、自分から進んで勉強をするようになる方法があるのなら、これだけ多くの学習教材や進学塾、家庭教師が存在することはないでしょう。
両者とも外に権威を求め、内と外の境界が曖昧になっていく印象を受けます。
両親としては、子どものために選択肢を間違えたくない、これ以上悪い状況になることを阻止したいという切実な気持ちはわかりますが、
子どもが頼りにし、向き合って欲しいと願うのは両親です。
親自身が子どものために自分たちの行動を振り返り、視野を広げようと努力し始めると家族に変化が起こり始めます。
その行動は、親が子どもと向き合おう覚悟を決めたのだと思います。
そして、真摯に自分と向き合おうとする親を子どもが感じることができるのでしょう。
PERFECT DAYS
PERFECT DAYS
2023年も、もう少しで終わろうとしています。
あなたにとって、どのような年になりましたか。
私は、新しいことを幾つか始まった感じがしています。小さなことは、新幹線チケットをスマホアプリで購入し、交通系ITを使って改札を通れました。購入したものの、ちゃんと通れるか不安でした。みどりの窓口には、長蛇の列。もし通れなかったら、あそこに並ぶのかと気持ちが凹みます。でも、文明の利器はすごいですね、ちゃんと通れました。思わず嬉しくて、スキップしてしまいました。
電子マネーにも挑戦しました。娘にチャージや支払い方法を教えてもらいながらでしたが。「私もやればできるじゃん」と隠れてドヤ顔です。老眼で小さい文字が見えなくなっているので、スマホ操作するものを避けていましたが、何とかなるものですね。
先日、映画「PERFECT DAYS」を観てきました。東京の公衆トイレ清掃員のお話です。役所広司さん演じる平山のルーティンが淡々と流れ、冒頭はこのままこの人の日常で終わるのか?そんなわけないかと思いながら観ていました。淡々とした日常に見えますが、平山は気に入っているようでした。空を見上げ、木々を愛で、トイレが奇麗になることに満足している。
人との関わりも、拒否しているわけではないですが、かと言って誰かと親しくなる側面も薄い。でも、人と関わることで変化は起こり、それを感じずにはいられないのが人の性分。しまっていた気持ちや感情が浮かんでくるのだなと感じました。
映画を観終わった後、人生を描いた映画だな、わかるような、わからないような答えがないのだろうと悟ったような気分になりました。
「トイレの清掃員なんて仕事やってられるか」 と思う人は多いでしょう。
でも、掃除をしてくれるから公衆トイレを気持ちよく利用できるし、街の治安維持にも貢献をしている。なくなると困る人が出る生活に密着をした仕事です。
平山は、それを誰よりも実感して仕事をして、生活をしているように見えました。
もちろん、低賃金で暮らし方も質素で、口数も少ないですが、幾度となく微笑みが溢れます。
この映画は、胸打つ感動ではなく、いつまでも頭から離れないという作品でした。
人は、生きる意味を探りたくなりますが、そこが見える人はいないのだろうと思っています。
本来は、自分が他の動物の獲物とならないために知恵を絞って生き残ることが生きる意味だった。今は、飢えることや雨風や暑さ寒さをしのぐ心配をしなくて済みます。その代わり、それとは別のところで生きる意味を探さなければならなくなったのではないか。
私たちは、生き延びるためではなく、生き続けるための意味を求めている。
そこには、賢さがいるような気がします。
例えば、人よりも富を得ようとして満足しようとする。そこを目指して夢中になっている時は満足感を得られますが、ある程度の富を手に入れた後、何を求めるのか。巨大な富があれば誰でも幸せになれるわけではなく、お金を巡っての争いが起きることはよくあります。
その対極にいるのが、平山という公衆トイレ清掃員。本人が今の生活を納得して受け入れていることは伝わってきますが、平山が幸せかどうかまではわかりません。
人の数だけ人生があって、自分とどう折り合いをつけていくか。
まずは、そこから。
その先を楽しみながらでしょうか。