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家族面接の事例を書いて
家族面接の事例を書いて
お知らせに載せましたが、
『対人援助職のための「観察力」と「質問力」の磨き方 実践に役立つ事例ワーク・質問集』
(中央法規)で、家族面接の事例を書いたので、家族面接の話を書きたいと思います。
私は家族面接で出会う家族が変化していき、家族の力強さを感じる瞬間が好きです。
最初は、親は子どもの悲しみや怒りを見ようとしない、子どもは誰も信じていない、この親子大丈夫か?と心配したこともありますが、ファミリーセラピストを挟んで話をし、お互いの気持ちがわかるようになると姿勢、表情、言葉、トーンが変わってきます。
何かの話題が出た時、話していない他の家族に
「あなたはその時、どう感じましたか?」
「今の話を知っていましたか?」
「お父さんは悲しかったようですね」等、
ファミリーセラピストが、丁寧に家族一人ひとりの話に耳を傾けます。
「その時は腹を立てていました」
「その話は知りませんでした」
「悲しいのではなく、怒っているのだと思っていました」
人は聞かれないと語りませんし、言葉にしようとして初めて自分の気持ちに気づくこともあります。
また、家族の中で話題になっているトラブルが、些細だなと感じることもあれば、深刻な話なのに気楽そうな印象だと映ることもあります。社会的な背景もあり、母親が働くことは当たり前な事だと受け止められるようになってきましたが、自分の家では仕事をせずに家族を優先させて欲しいと言われている方もいます。
何を言われてもマイペースに働き続ける。
仕事を辞めて専業主婦になる。
パートタイマーに切り替える等、母の選択はそれぞれです。
育児、家事、仕事のバランス感覚は必要ですが、「働かざる者食うべからず」と諺もあるのに、何で働いていることで責められないとならないのだろうと感じますが、それは私の感覚なので、そこも丁寧に父、母、子どもに尋ねていきます。世間の話としてはそうだなと思えるけど、我が家では認めたくないということは、割と起こっています。家族の選択を責めることはしませんが、その意味を一緒に考えています。
家族面接では普段は語られないお互い、そして自分の気持ちを耳にすることになります。そんな風に思っていたのかと知ることで、怒りの感情が落ち着く、わざとしていると思っていたことがそうではなかった、勘違いだったとわかる等が起きると家族の態度が変わり、向き合おうとしていきます。
人は皆違い、家族もまた同じ家族は存在しません。私は家族面接で、家族の通信機器のようなことをしているのかなと感じています。
私の父親
私の父親
私は父親と暮らしたことがありません。写真で見たことがあるけど、知らない人。
父と出会ったのは、中学生の時。私は会いたくなかったのですが、母親に「今後の事を考えたら会っておく方がいい。会いに行きなさい」と言われて渋々出かけて行きました。もちろん、父の耳には私が会いたがっているからと届いています。本当に迷惑。
父は中学生の私に「学校はどうだ?何の勉強が好きか?」と尋ねるだけで、後の話題が続きません。
これって、私と話すことがないと言っているのも同じですよね。私に興味がないのだなと感じた中学生は、帰りたくて仕方がない。父親との初対面はもっと感動的なのだと信じていたので、何か裏切られた気分。
そんな訳で、私は父親と言うものが理解できていない人間なのだろうと感じていました。
父親不在について母は、凄いことを言ったことがありました。
「飲んだくれのくだらない〇〇さんの父親ならいない方がマシでしょう」
何て失礼なことを堂々と言うのだろう。
これも中学の時でしたね。私が母を反面教師に感じ始めたのは、この辺りからかも知れません。父と食事を定期的にするようになり、母の言われた通りにせずに話をしたら父と笑いあう時間がありました。これが反面教師にして生きていこうと確信に変わった出来事だというのは覚えています。
子どもにとって親の影響は良くも悪くも絶大です。いろいろなタイプがいますが、子どもも馬鹿ではありません。
それでも、親に愛されないと感じると自分が悪いのではないかと自分を責めてしまいます。大人になっていろいろな家族の話を聞くようになりました。
悪いことは何でも子どものせいにする父親。
自分自身を最優先させる父親。
子どもに好かれたくて母親と張り合う父親。
ほとんど子どもを叱らない父親。
父親の数だけ違いがあって、面白いです。
夫は、自分の好きなことで子どもと遊ぶのが上手い。言い換えれば、父親というより子どもがもう一人増えているように見えます。我が子たちは、父をどのように感じているのかわかりませんが、一人ひとり違う印象を持っていると思います。
子どもは、あまり「親」というイメージに縛られなくてもいいのでしょう。それとは逆に親は、子どものためになることを一所懸命考えて欲しいものです。
結婚の前に
結婚の前に
時代と共に恋愛事情も変化していきます。婚活パーティーやマッチングアプリで出会ったと聞いても驚かなくなりました。最近よく聞くのが、同棲を始めたという話。
一昔前は、同棲と言えば隠れてするものというイメージがあったのですが、今は親に許しを得て同棲を始めています。何かとハラスメントだと言われ、雇用制度の変化、社会保障の財源不足、物価高等、将来に対して不安が大きい時代、
「あなたもいい年齢なのだから、そろそろ」
「付き合っている人はいるの?」
という事を言えなくなっています。
女は結婚して家庭に入るのが一番幸せだとちょっと前まで言われていましたが、男性が働いて女性が家事・育児をする生活形態を送ろうと思えば、男性が家族を養えるだけの経済力、そしてそれが続いていくことを疑わないで済む世の中のシステムがないと難しい。
私の時は、結婚できなかったらどうしようという不安が根底にありました。周りの結婚の報告が増えていく中、このまま永遠に独りぼっちだったらどうしようと思っていました。
そして臨んでいた結婚をして、一緒に暮らし初めたら、相手の嫌な面ばかりが見えるという話もよく聞きました。つきあっていた時はやさしかった相手が、結婚したら偉そうにされて幻滅。でも、結婚してしまったから引き返せないという嘆きもありました。
若い人達は、そういうことにならないように予行練習で同棲を始めるのでしょうか。同棲する女性に、結婚ではなく同棲をする理由を尋ねたことがありました。
「結婚して本当に一緒にやっていけるか自信がないから。それは、相手にも今のままのあなたとやっていけるとは思えていないと伝えている」のだそです。
同棲を始めることも本当は不安なのだけど、大好きな人と一緒にいたいという気持ちも伝わってきます。同棲も楽しいだけではないのだなと教えてもらいました。
いつかは結婚したいと気持ちがあるようですが、踏み切るには至らないというところでしょうか。
同棲をしたいと言われ、親御さんは反対する理由をみつけられないが、何とも言えない感覚も持っているようです。結婚するなら新居の準備に手を貸せますが、同棲になると手を貸しづらい。親公認の相手だが、親族ではない、宙ぶらりんの関係。妊娠したら結婚をするのだろうが、このまま別れてしまうことも起こり得るのだろうなぁとモヤモヤ。
今の若い人たちの選択は、親世代を見てきての感覚なのでしょう。
その前の世代も、「亭主元気で留守がいい」と揶揄された夫婦の形を同じようにしていこうとは思わなかった。繰り返されているのですね。
パートナーを求めて引き合う気持ちは、いつの時代も変わりません。でも、どう自分たちのスタイルを築いていくかは別のこと。そこに正解はありません。また下の世代がどのような行動を選択していくのか楽しみにしていましょう。
言いわけ
言いわけ
世の中は不条理なことでいっぱいだ。
子どもの頃は、世の中はもっと正義でできていると信じていたが、大人になってそれは違うと知ることになる。良い行いをしてさえいれば、安泰に暮らしていける保証がつくわけでもなく、親や先生の言う通りしていても上手くいかないこともある。これが常識。だからだろうか、子どもと大人の言いわけは違うなぁと感じます。
子どもも大人も自分は悪くないと言いわけをしますが、
子どもは怒られたくなくて言いわけをするが、すぐにばれて余計に叱られる。
大人は、変化が恐くて言いわけをする。
大人は上手くいっていなくて悩んで、何とかしたいと言っているのに言いわけをして波風を立てないことを優先させようとしてしまう。目の前の平穏を維持しようとすれば、今の状態は悪化していくことがわかっているのに向き合えない。気がつけば、何故ここまでこじらせてしまったのかと周りに呆れられる。
こういう場面は珍しくなくて、相談に来られる時は、手に負えなくなっていて、時間も経ってしまっている。もう少し早く相談に来て欲しかったとうなだれたくなることも多々あります。
誰も責任を取りたくないのだなと感じます。特に職場のトラブルは、その傾向が強い。対応せざるを得なくなった人は、かなりの労力を伴います。
家庭内のことだと、どうしようもないと言いわけをして問題を先延ばしした結果、しわ寄せを一番受けるのは子どもです。子どもは、まだ世の中の不条理を知らないから、親や先生の言う事を正義と言う枠にあてはめて理解しようとします。大人が子どもに何も伝えずにいれば、いつか信じた大人に裏切られたと思うでしょう。
子どもは、大人の言う通りに生きていては力がつきません。
試して、失敗して、やり直す。試行錯誤を経験していれば、道はみつかるものだと学びます。
大人が目の前の揉め事を恐れる姿を子どもに見せているようでは、子どもは試行錯誤することができません。大人自身が試行錯誤していく姿を見せることが、子どもに生きる力を伝える大人の責任ではないでしょうか。
欲しい言葉は単純
欲しい言葉は単純
2月は短いことを失念していました。もう2月が終わってしまうと気づきました。時の流れの速さにビビります。
今ちょうど2月末から3月にかけて、京都国際社会福祉センターで家族療法ワークショップ対人援助職のための自己覚知―原家族と向き合うーを開催しているところです。3年弱ぶりの開催で、8名の受講生がそれぞれ自分の生まれ育った家族のことを振り返ります。1人たっぷり2時間かけて自分の家族のことを他のメンバーと一緒になって正面から向き合う機会で、とても濃い時間を繰り返していきます。
原家族を振り返る時、両親が既に亡くなっていてもう話をすることができない状況にあると、聞けなかったこと、言えなかったことを抱えモヤモヤが晴れないまま過ごしていると話す人に出会います。親に何を聞きたかったのかを尋ねられて、一所懸命に説明しようとするのですが、そこに気持ちが入っていないことは伝わってきます。そうすると、本当に聞きたいことは何だろうと感じます。説明しようとすればするほどそれは強くなり、空回りしていきます。
何故、説明したくなるのか。本音を隠したい、聞きたいことが具体的な言葉になることを拒んでいるのかも知れません。
ワークショップでは、参加者がその当時を「家族造形法」という手法で表現し、何を感じたかを語り、展開させ、また語っていきます。
終盤に「お父さんが好きだった?」
と尋ねられると、しばらく逡巡して
「はい、そうですね。好きだったと思います」
「お父さんは、あなたが好きだった?」
その人の顔に血の気が戻ったように見えました。
あー、これだったのか。
大人になると複雑な事かのように語りやすくなりますが、本質は単純な事です。
親子でも夫婦でも大切な人を好きでいたい、好きでいて欲しい。
それだけなのに、大人になるほどいろいろ考え込んしまいますね。